
私にとっての、三浦恭資という人
1999ツアーオブジャパン修善寺ステージより急遽、JPCAのマネージャーの大任を保坂氏より引き継いだ際、
チームのキャプテンでありエースであったのが三浦氏。
JPCAのマネージャーをする事も、そのチームに三浦氏がいる事も知らなかった私は「ここは、誰?」状態に。
私にとっての三浦氏を語る前に、この人の名前を先に挙げないわけには、いかないだろう。
その人は,私の人生の半分以上を、自転車競技と言うモノと関りつづけさせている人。
その人の名は、森幸春。
三浦氏は、その森幸春氏率いるミヤタレーシングのBチームから、伝説の「チームMICHIHO」でヨーロッパに渡った。
チームMICHIHOのことは、現在は廃刊となってしまった「自転車競技マガジン」で毎月、森幸春氏の渡欧手記が
掲載され、私は食い入るように読みふけっていた。
チームMICHIHOになぜ、ミヤタのBチームのパーシューターである三浦氏が入っているのか正直、疑問だった。
実際、自転車競技マガジンの森幸春氏の渡欧手記の当初では、三浦氏の走りが取り上げられる事は無かった。
しかし、忘れもしないあの記事。森幸春氏の手記にあった一文。
「私は(森氏)ある日、生まれ変わった三浦君を見た。
苦手としていた山を苦にもせず、先頭集団で登りを駆け上がっていく三浦君を・・・」と。
その後、三浦氏は才能を開花させヨーロッパで市川雅敏氏に次ぐ日本人第二のプロサイクリストとして、活躍した。
私は、三浦氏と運良く(悪く?)数レース共に走っている。
1986年の山梨国体では、フルフラット131キロのコースで、100キロ地点からラスト1キロまで、アタックをかけた。
正確には、アタックに私が乗ったのだ
メンバーは、三浦さん、大門さん、佐藤稔実さん、安原さん、林さん(パナソニック)そして、私。
私がローテーションで先頭を引くとペースが上がらないので林さんに「おまえ引くな、下がれ!」と
言われたのを覚えている。
ゴールまで、ラスト一キロでアタックは、集団に飲み込まれ、三浦さんと大門さんが舗道に飛ばされ「ドカン、バコン」と
激しい音を立てていた。
その年,沖縄で開催されたプレ国体である,都道府県対抗自転車競技大会。
このレースで三浦さんは,優勝している。
私は、と言うとハンドルバーにコースの高低差のプロフィールを書いたものを貼り付け,サイクルPCの走行距離と
照らし合わせなから,繰り返されるアタックに乗るかどうかを判断しながら走った。
「どうせ誰も完走せんから,補給地点にいかんでもええやろ」との先輩のありがたい言葉をスタート前受けていた。
前半の濃いメンバーのアタックには,ことごとく乗った。
補給地点前には,先頭集団から切れてしまったが,とりあえず補給地点まで走ってきてしまった。
まだ,グルペットで完走を狙える位置にいた。
補給ポイントの他府県の補給係に見慣れた顔を見つけると「補給ください」と催促するももう無いと断られた。
大阪だった。即、奈良県の脇本君が「これ」といってサコッシュを橋本にくれた。
サコッシュには,「三浦」と書かれていた。嫌な予感を感じつつ、サコッシュを首からかけて中をあさると出てきたのが
揚げパン…たしかウインナーだかコロッケも入っていたような記憶がある。
「これ,ビールのあてやろ!」と言いながら何とか,バナナとヤクルトを見つけ関門通過ギリギリでゴールできた。
100人中30位前後だった。
翌年の全日本選手権。
山梨で行なわれた、180キロオーバーの距離で、軽トラックがセカンドギアでやっと登れる坂のある難コース。
私は、調整のつもりで100キロぐらい走って降りるつもりでいた。
当時のリアは、6速。
私のローギアは、21T。前日に試走をしていて「こんな坂のある細い道がコースなわけがない」と道を間違えたと
思っていたら、そこがコースだった。
スタート前に、シマノの選手のローギアが23Tであることを知り、昨日の道がミスコースでない事を悟った。
私は、100キロ程走って降りるつもりが、50キロちょいで先頭集団にラップダウンされてしまった。
スタートは、360人を超えていたと記憶している。
私が降りた時点で、走っている選手は50人を切っていた。
最終的にゴールしたのは、12名。
優勝は、三浦さん。2位が同じくシマノの国末さん。
ゴール直後、国末さんが「三浦ありがとう!」と2位に引っぱってくれた礼を言っていた。
このレースが如何に過酷だったかを物語る後日談。
2位の国末さんは、あまりに過酷なレースを走った結果、病院送りとなり入院してしまったのだ。
三浦さんのキャラクターを一声でいうなら、細やかな,気配りの出来る人。
もう一言付け加えるなら、物を大切にする人。
ついでに,礼節をとても重んじる人。
ある年の夏の合宿でのこと。
このページ画像のTTバイクのセットアップに橋本が持っていっていたロードバイクのパーツを外して流用したのだが,
合宿終了後、2日後にはそのパーツが橋本のところへ郵送されてきた。
合宿中,交換して破棄するチューブラーからチューブを取り出し,練習用クリンチャータイヤのチューブに流用していた。
あの三浦さんが,ハサミを持ってチューブラーのリムフラップをはぎ,糸を切りチューブを取り出していたのだ。
これには,感動した。「なんて物を大切にする人なんだろう」と心底尊敬できた。
※いつのまにか敬称が“氏”から“さん”に変わっていますが,親しみを込めてということで。
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